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| 60年代通信スペシャル 懐かしの長岡厚生会館物語 その01 |
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最後にデータ更新をさせていただいた「『60年代通信』勝手にお知らせコーナー/ボンネットバス『夕やけ小やけ』号最終運行のお知らせ」(2007年5月2日更新)から、既2年と2カ月以上が経過しておりまして、森昌子さんの「あなたを待って三年三月」には及ばないものの、「アップを待って二年二月」というような状況になってしまっていたわけでありますから、こんな不埒で無節操な主宰者ではありますけれども、実に、感無量といったところであります。 これまで、何度も、トップページの駄文コラムで、新規企画ページの立ち上げやデータ更新への決意表明をしながら、徒に歳月ばかりが過ぎ去ってしまってきていたわけでありますが、昨年の6月から、腫れて…じゃなくって、晴れて“五十路のフリーター”あるいは“勝手にシンドバッドの失業者”へとオリエンタル華麗な変身を果たし、寅さんのように「ゼニはねぇけど、時間ならあるぜ」とうそぶきつつ、実は「ゼニもねぇけど、時間なら、もっとねぇぜ」という毎度お馴染みの「ビンボー暇なし状態」を不本意ながら極め続けてしまい、タコ社長も真っ青というカラ手形の連発を繰り返すという結果になってしまっていたわけでありますが、ようやく、ここに、めでたく、新規連載企画「長岡厚生会館物語」をアップすることができましたことは、僕自身としても、やっと、長年の胸のつかえがとれたような思いであります。 なぜ、こんな不埒で無節操な主宰者が、この期に及んで、新規企画ページの立ち上げという離れ業を演じることができたかと言いますと、僕らのように60年代に新潟県長岡市で思春期を過ごした人間にとりましては、バカボンのパパ風に言うなら「忘れようとしても思い出せない」懐かしの長岡厚生会館が、とうとう、その姿を消してしまい、この「60年代通信」を開設した当時と同じように、「60年代の長岡」への思いがふつふつと沸き上がってきたからなのでありました。 なぜ、長岡厚生会館がそこまでのパワーを与えてくれたのかは、これから、どこまで続くか分かりませんけれども、この「長岡厚生会館物語」を読み進んでいただければ、皆様にも、ご理解いただけるのではないかと思いますので、ここでは、その理由をくどくどと書かせていただくのは、省略させていただくことにします。 先日、と言っても、今、改めて確認させていただいたところ、6月7日のお書き込みでありますから、もう1カ月以上も前のことになりますけれども、長岡在住の「かんちゃん」という方から「60年代通信」掲示板に「長岡厚生会館がとうとう影も形もなくなりました」というお書き込みをいただき、早速、ご紹介をいただいたURLのページを覗かせていただいたところ、取り壊しにより半壊状態となった厚生会館の画像が掲載されており、改めて、僕自身も、大きな喪失感を覚えたところでありました。 「かんちゃん」には、先日、メールを差し上げて、この厚生会館の画像が掲載されているページへのリンクをお許しいただきましたので、皆様も、どうぞ、このページをご覧いただければと思う次第であります。 「桜井完二郎の世界/長岡の今をご紹介」(http://www.geocities.jp/kanjirou48/sub1.html) 数年前から、長岡厚生会館の取り壊しについては、風の噂に聞いておりましたし、一昨年の夏に帰省した際には、市役所ロビーに市街地再開発計画のパネルが展示してあるのを見て、いよいよ、「その日」が近づいていることを実感させていただいておりました。 先日、長岡市役所の広報課に電話して確認したところ、「もう更地になっています」ということでありました。 1960年代に長岡をすごした人々にとって、「コーセーカイカン」という言葉は「トッテツ」とともに、あの懐かしい長岡駅周辺の賑わいを思い起こさせてくれるものだろうと思います。 「トッテツ」と呼ばれていた栃尾鉄道が廃線となってから既に30年以上が経過しておりますけれども、21世紀に入って9年目の今年、長岡厚生会館もその姿を消すことになり、60年代の長岡、とりわけ、駅前や大手通りの賑わいを偲ぶ縁は、これまた、閉店の噂も囁かれている長岡大和店だけとなってしまいました。 僕自身、長岡を離れて30年以上が経ってしまておりますが、それでも、やはり、長岡厚生会館の取り壊しというニュースには、大きな衝撃を受けております。 そこで、久しぶりの「60年代通信」データ更新再開の企画ページとして、今週から「長岡厚生会館物語」を作らせていただくことを決意した次第であります。 この新規コンテンツを機に、毎週更新を実現したいところでありますが、過去の経験に照らしまして、恐らく、不定期更新ということになろうかと思いますけれども、皆様におかれましては、よろしくお付き合いくださますよう、お願いいたします。 それでは、はじまり、はじまり…。 |
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手元の「長岡市政だより」縮刷版によりますと、長岡厚生会館が完成して竣工式が行われたのは昭和33年11月10日のことでありますけれども、その建設計画については、昭和32年8月10日に発行された「長岡市政だより」で仔細に紹介されておりました。 この「長岡市政だより」の記事には、「議会では、七月二十日臨時市議会を開き、厚生会館建設調査特別委員会を設置し、各地の体育館を視察することになり、よりよい厚生会館建設に力を注ぐことになりました」と書かれていますから、厚生会館の建設自体が決定されたのは、昭和32年7月よりも以前のことだったようであります。 「長岡市政だより」縮刷版を丹念に遡れば、そもそも、建設がいつ頃から検討され始めたかも分かるのだろうと思いますが、先日、長岡市役所の広報に問い合わせた際にも、かろうじて、完成時期をお聞かせいただけただけで、厚生会館の建設経緯や完成後の使用状況などについては、詳しい資料が残っていなくて分からないということでありましたので、とりあえず、教えていただいた完成時期をベースに「長岡市政だより」縮刷版で見つけることができた竣工式のページに近接して掲載されていた昭和32年8月10日発行の「市政だより」の記事から、建設に至る経緯などを紹介させていただきたいと思います。 今後、建設計画の検討開始時期などについて、詳しい資料などが発見できましたら、また、時期を遡って、色々と検証させていただこうと考えておりますので、悪しからず、ご了承ください。 この昭和32年8月10日発行の「長岡市政だより」の紙面は、画像でもご覧いただける通りでありまして、記事の大見出しには、「登場する体育の殿堂/市会で特別委員会を設置/厚生年金還元融資の内定で実現近し」の文字が躍っております。 記事本文の書き出しは、次の通りです。 「十四万市民の誰もが親しめる会合の場、体育のセンターとしてこの厚生会館建設の動きはかねてから市民のみなさんの話題をにぎわしていましたが、このほど県及び県社会保険協会、そのほか関係諸団体のご協力と、市議会、市理事者の一致団結した努力により、厚生年金還元融資(二年継続四千万円あて)が内定し、いよいよ十一月に待望の着工をする予定となりました」 この文章からは、厚生会館の建設については、早くから市民周知の事実となるような状況だったことが推察され、昭和32年といえば、僕自身は、まだ、2歳でありますから、全く記憶にありませんが、僕をおんぶしたお袋も近所のお母さんたちとの井戸端会議で「おめさん、聞いたけ、今度、でっこい体育館が建つらしいがろも、どんげんがらろうね」などと話していたのではないかと思われるわけであります。
ちなみに、「長岡市政だより」の題字下にある「人口の動き」によりますと、昭和32年8月1日現在で、世帯数は2万6299世帯、人口は男6万6287人・女6万9213人で合計13万5500人となっています。 再び、話を戻させていただきますと、この厚生会館の必然性について、「長岡市政だより」の記事は、次のように説明しています。 「体躯施設の必要なことは、すでに市民のみなさんもご承知のとおりでありますが、わが長岡市は県下でも特に積雪の量が多く、1年の大半を雪の中で生活しなければならないので、雪国にとくに多いといわれる眼疾、胃腸病、肺結核などの病気にかかり易い環境にあります」 「また、当市産業のなかでも工業が盛んなため、これらの工場に働くもの、とくに青少年の体位が同年齢の学徒に比べて年齢の進むとともに次第に劣ってきているといわれています。長岡市の場合は、平均よりも更に低下している状況です。このことは、勤労青少年が学生に比べて伸びる能力がないのではなく、伸びるはずの能力が訓練される機会がないために、そのまま止まってしまうからです」 積雪量が多いという気候風土によって、特定の疾病にかかりやすいというような状況があったことや、長岡の勤労青少年の体力が生徒や学生に比べて劣っているというような事情があったことなど、長岡で生まれ育った人間のくせに、今まで、全然、知りませんでした。新たな公共施設建設の必然性を強調するために、いささかの誇張はあるのかもしれませんが、「市政だより」に根拠の希薄な事実に基づいて牽強付会とも言うべき論旨が展開されるようなことはないでしょうから、雪国としてのハンディは、現在などと比べると、はるかに大きなものだったのかもしれません。 そうした状況に言及した上で、「市政だより」の記事は、次のように結ばれています。 「したがって、以上の二点からしても、どうしても私たちの長岡市に体育施設が必要なのです。幸いにしてこの施設、いわゆる厚生会館の実現が近いことは、市民のみなさんとともに喜びに堪えないところであります」 ということで、結びの文章は、なにやら「60年代通信」チックな雰囲気も漂ったりしておりますけれども、記事の見出しにあった「体育の殿堂」という言葉にも象徴されるように、長岡厚生会館は、何よりも“体育施設”として、その必要性が前面に打ち出されていたことだけは、間違いないようです。 僕自身の個人的な記憶をたどってみると、厚生会館で運動をしたりスポーツ観戦をしたりという印象は薄く、むしろ、ラジオの公開放送や労音・民音のステージなどを見に行った思い出の方が多いため、市立劇場もなかった時代の長岡におけるコンサートホール的なイメージが強いのですが、戦後まだ10年ちょっとしか経っていない時代、しかも、まだ、本格的な高度成長時代を迎える前の段階で、衣食住の充実や国民の福祉向上といった側面の方が、音楽や演劇などを楽しむ芸術文化の充実といった側面よりも重視されていたであろうことは想像に難くなく、予算の根拠としても“不要不急”の芸術文化よりも“必要不可欠”の国民福祉を前面に押し出して、体育施設としての厚生会館の必然性を訴えなければならなかったという時代的な事情は、さきほど紹介させていただいた「市政だより」に書かれている通りだったのだろうと考えるわけであります。 毎度のことではありますが、かなり長い文章になってしまいましたので、「長岡厚生会館物語」第1回は、ここまでとさせていただきますが、最後に、「長岡市政だより」(昭和32年8月10日発行)に掲載されていた厚生会館の構造などの情報を紹介させていただきます。 「この厚生会館の構造など予定される内容は次のようになっています。 ○構造 鉄骨及び鉄筋コンクリート造 二階一部三階 ○規模 一階 三二六、〇一坪 二階 七五二、四七坪 三階 二〇一、九二坪 計 一、二八〇、四〇坪 ○可能競技種目 バスケットボール バレーボール バドミントン 卓球 体操 柔道 剣道 弓道 レスリング ボクシング 相撲 庭球 ○収容人員 五、一〇〇名 ○工事費 九、一〇〇万円」 (次回に続く) [2009年07月12日UP] |
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