「60年代通信」スペシャル
早稲田
が育み神宮の杜も愛した斎藤佑樹

 第2回「最後は気持ちだ」

  第1回「早稲田で生まれ、早稲田で育ち…」はこちら

 先週の土曜日(2011年02月19日)の深夜に、「60年代通信」スペシャル企画「早稲田が育み、神宮の杜も愛した斎藤佑樹」の第1回として「早稲田で生まれ、早稲田で育ち…」というページを作らせていただいてから、あっという間に1週間が過ぎてしまいました。
 先週の土曜日に、ヤクルトとの練習試合に登板する予定だった斎藤投手は腹痛のために登板が見送りとなりましたが、結局、練習試合は雨天中止でありました。今日は、実戦での初登板となった韓国・サムソン戦以来13日ぶりにマウンドに立ち、千葉ロッテマリンズを相手にオープン戦初登板を迎え、1安打1四球でワンアウト2・3塁と追い込まれながらも、無得点で切り抜けました。夜のスポーツ番組を見ていたら、日本テレビ“Going”の江川卓氏は「19球を投げて14球をアウトコースに集中させたのは、明らかに、プロのバッターがどこまでアウトコースを打つのかを見極めるためで、普通は、打たれたくないから、あんなにアウトコースへ投げることはできるものではなく、それが出来る斎藤君は、やっぱり、ただ者ではない」というような趣旨のコメントをしておりました。一方、先週は斎藤投手との対談で、「俺が受けたら2桁は勝たせる」と豪語していた楽天の野村名誉監督は、TBSの“S1”で「ステップした足をつっぱるのと、腕の振りのフィニッシュが弱いのが気になる」と指摘しておりました。また、早稲田の大先輩である小宮山悟氏は、テレビ東京“Neoスポーツ”での斎藤投手との対談で日本ハム入団前に「プロなめんな」と忠告したことを明かし、「腹痛による登板キャンセルで調整自体がマイナスになって時間がないため、次の札幌での登板からペースを早めて開幕に間に合うようにしなければ」と強調しておりました。
 ということで、3月末の開幕に向けて粛々と事態は進んでいるわけでありますが、今週も、また、そんなこととは関係なく、「60年代通信」スペシャル企画「早稲田が育み、神宮の杜も愛した斎藤佑樹」の第2回に入らせていただきます。



 
 2006年7月30日の西東京大会・決勝の対日大三高戦で
マウンドに立つ斎藤投手(NHKテレビの中継画面から)
 第1回では、なぜ、この「60年代通信」スペシャル企画を立ち上げさせていただいたのかという理由と僕と早稲田野球との関わりなどを書かせていただきましたけれども、今回は、「神宮の星」として斎藤投手が活躍する前史ともいうべき早稲田実業時代を振り返らせていただこうと思います。
 まず、個人的な話になりますけれども、僕が斎藤投手にハマってしまったのは、2006年7月に高校野球・西東京大会の決勝「早稲田実業vs日大三高」戦をテレビ観戦している時でありました。
 もともと、早稲田野球フリークとして、早稲田大学と同じデザインのユニホームを着て、応援歌「紺碧の空」が歌われているというだけの理由で、OBでもないくせに、早稲田実業が甲子園に出れば、その試合はテレビで見ておりましたし、夏の甲子園の予選では、僕の出身校である新潟県立長岡高校と同じくらいに早実の結果は新聞で気にしておりました。
 ですから、日大三高との決勝戦も、甲子園に出られるよう応援しながらテレビを見ていたわけでありますが、途中から、早稲田実業の勝利を祈りつつも、涼しげな顔で力投を続ける斎藤佑樹という選手個人への興味が膨らみ、既に全国の有名投手だったことも知らずに、「この斎藤という選手は、甲子園に行って勝ち続けたりしたら、かつての荒木大輔投手のような人気者になるのではないか」などと思いつつ、7回表からビデオを録り始めたのでありました。
 早稲田実業は、同じ年の春の甲子園にも出場しており、その時にも、岡山県の関西高校と延長15回で引き分けて再試合となり、話題になっていたわけでありますけれども、恥ずかしながら、僕は、西東京大会の決勝をテレビで見るまで、斎藤投手の存在を明確に意識していたわけではありませんでした。
 春の選抜高校野球で早稲田実業が引き分け再試合になったことや、実力のあるエースがいるという程度の知識はありましたが、そのエースが「斎藤佑樹」という名前で、本格派投手として全国区の知名度があるということすら知らなかったのです。
 しかし、何故か、早実が関西と延長15回を戦って引き分けた試合や、その再試合は、リアルタイムでテレビを見た記憶がありません。
 ですから、西東京大会・決勝の日大三高戦が、僕にとっての「斎藤佑樹」初体験だったことになるのですが、テレビを通じて試合の前半を見ているうちに、すっかり、斎藤投手の魅力に惹き付けられてしまったのでありました。
 僕を惹き付けた斎藤投手の魅力が何だったのかは、未だに判然としませんが、やはり、汗まみれ・泥まみれという高校野球のイメージにはそぐわない爽やか・涼やかという雰囲気を醸し出しながらも、西東京大会で三連覇を続けてきた強豪校である日大三高に真っ向から挑む強気のピッチングを続けるという微妙なアンバランスというのも、その一つだったような気がします。
 
 
 まずは、僕が見過ごしていた2006年の選抜高校野球大会における早稲田実業の戦いぶりを復習させてもらおうと、当時の毎日新聞の縮刷版を見ていたら、斎藤投手に関連する記事には、この「爽やか・涼やか」系の雰囲気に言及する文章が少なくありませんでしたから、“ハンカチ王子”として騒がれる以前から、斎藤投手の“王子”然とした容姿や立ち居振る舞いは、誰もが感じるものだったようであります。
 例えば、2006年3月20日の東京版に掲載された「ナインの横顔」という選手紹介記事では「優しい顔立ちながら勝負根性は抜群」、センバツ初戦の対北海道栄戦に7対0で完封勝ちした翌日の3月27日のスポーツ面の「伸びやか エース斎藤」と題するコラムでは「物静かな雰囲気の斎藤」などという表現が並んでおりました。
 また、そうした顔立ちや雰囲気とは別に、人を惹き付ける天性の素質も持ち合わせているようで、ドラフト会議の直前になって斎藤投手の1位指名を決定した北海道日本ハムの動きを、スポーツ専門誌『ナンバー 766』は次のように伝えています。
 日本ハムでは、ドラフト会議の本番直前まで、斎藤投手、大石達也投手、澤村拓一投手、大野雄大投手、塩見貴洋投手という5人の大学生投手5人の誰かということしか決まっていなかったため、山田正雄GMはドラフト会議の3日前に、シート打撃で投げることになっていた大石を見るため、東伏見の早大グラウンドを訪れ、そこで、たまたま、ブルペンに入るところだった斎藤投手と出くわし、せっかくだからと、斎藤投手のブルペンでの投球練習もじっくり見ることにしたのだそうです。
 「それだけ近くで斎藤を見たのは初めてのことだったんですけど、球がどうのこうのではなく、その存在感に、すーっと吸い込まれちゃったんですよね…。ふわ〜っとした気持ちになったというか。女の人に惚れるような気持ちでしょうか。今まで野球選手を見てそういう感覚を抱いたことはなかった。だから、プロのスカウトとして、こういう選手は絶対に(指名を)外しちゃいけないんじゃないかと思ったんです」
 その帰路に、山田GMは西武新宿線の電車の中で、「斎藤で勝負をかけてみよう」と気持ちを固め、ドラフト会議での斎藤投手の1位指名が実現したのでありました。




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早稲田実業の甲子園出場歴
1915年 大正04年 第01回大会
1922年 大正11年 第08回大会
1923年 大正12年 第09回大会
1924年 大正13年 第01回大会
1924年 大正13年 第10回大会
1925年 大正14年 第11回大会
1926年 大正15年 第03回大会
1926年 大正15年 第12回大会
1927年 昭和02年 第13回大会
1928年 昭和03年 第14回大会
1931年 昭和06年 第17回大会
1932年 昭和07年 第09回大会
1932年 昭和07年 第18回大会
1933年 昭和08年 第10回大会
1934年 昭和09年 第20回大会
1935年 昭和10年 第21回大会
1936年 昭和11年 第13回大会
1936年 昭和11年 第22回大会
1939年 昭和14年 第25回大会
1941年 昭和16年 第18回大会
1948年 昭和23年 第20回大会
1951年 昭和26年 第33回大会
1953年 昭和28年 第25回大会
1954年 昭和29年 第26回大会
1954年 昭和29年 第36回大会
1956年 昭和31年 第38回大会
1957年 昭和32年 第29回大会
1957年 昭和32年 第39回大会
1958年 昭和33年 第30回大会
1960年 昭和35年 第42回大会
1963年 昭和38年 第35回大会
1975年 昭和50年 第57回大会
1977年 昭和52年 第49回大会
1977年 昭和52年 第59回大会
1978年 昭和53年 第50回大会
1978年 昭和53年 第60回大会
1980年 昭和55年 第62回大会
1981年 昭和56年 第53回大会
1981年 昭和56年 第63回大会
1982年 昭和57年 第54回大会
1982年 昭和57年 第64回大会
1988年 昭和63年 第60回大会
1996年 平成08年 第78回大会
2006年 平成18年 第78回大会
2006年 平成18年 第88回大会
2009年 平成21年 第81回大会
2010年 平成22年 第92回大会
 ということで、話が横道にそれまくっておりますが、改めて、2006年の春の甲子園に話を戻させていただきます。
 さきほども言及させていただいたように、早稲田実業は1996年の春以来、18年ぶりに帰ってきた甲子園の1回戦で北海道栄に7対0で完勝した後、2回戦では岡山県の関西高校と対戦することになります。
 僕の中では、早稲田実業というと「夏の甲子園の常連校」というようなイメージがあったのですが、手元にある『早実野球部 栄光の軌跡』(ベースボール・マガジン社)によりますと、早稲田実業は夏も春も第1回大会から出場しており、昨年までの記録では、夏が28回、春も19回となっていますから、春夏合わせて47回も出場している早実は、春も夏も関係なく「甲子園の常連校」なのでありました。
 連続出場記録でみると、大正11年から15年まで5年連続で夏の大会に出場しておりますが、もちろん、大正時代の話ですから、僕がリアルタイムで知る由もありませんけれども、時代をくだると、昭和55年から57年までの3年連続が近年の記録ということになります。この昭和55年から57年というのは、あの荒木大輔投手を擁していた時代で、僕も荒木投手の活躍はテレビで観ておりましたから、あるいは、この時の強い印象で、僕の中に「夏の甲子園の常連校」というイメージが刷り込まれたのかもしれません。この時には、昭和56年と57年に春の甲子園にも出場しており、荒木投手の場合、実に3年間で5回も甲子園のマウンドに立つという偉業を達成しています。
 
 ということで、またまた、話が横道にそれ始めておりますので、関西高校との2回戦の話に戻ります。
 2006年3月30日付の毎日新聞紙面によりますと、この試合は、先攻の早実が7対4でリードして、最終回の9回の裏を迎えていますが、ランニングスコアを見ると、3回裏に関西が1点を先取した後、5回表に早実が2点を取って逆転すると、5回裏には関西がすかさず1点を返して2対2の同点になり、早実が6回に1点、7回に3点を追加して、6対2と4点差に突き放しています。しかし、関西も7回裏に2点を返して、6対4と迫ったものの、9回表には早実がダメ押しとも思える1点を追加し、7対4で9回裏を迎えることになりました。
 しかし、記事の見出しに「早実9回・まさか現実」とあるように、無死2塁から連続四球で満塁となり、最も警戒していた関西の四番バッターに走者一掃の三塁打を浴び、まさかの同点劇を許してしまいます。無死三塁の局面で、連続敬遠策をとり、再び、無死満塁という絶体絶命のサヨナラのピンチを迎えることになりました。
 9回表にダメ押しとも思える1点を追加し、3点リードで9回裏を迎えながら、連続四球で満塁のピンチを作り、相手チームの四番バッターに走者一掃の同点三塁打を浴びて、なおも無死満塁というシチュエーションですから、試合の流れからすると、完全に勢いづく関西ペースという状況だったのではないかと推察されます。
 ところが、この後がないサヨナラの場面で、斎藤投手は、ピッチャーゴロによる1-2-3のダブルプレーと三振で後続を断ち、試合を延長へと持ち込みました。
 早実の勝利がなくなった延長15回の裏にも、気持ちを切らすことなく、三者連続三振で切り抜けており、この辺りの土壇場での踏ん張りは、その後、数々の修羅場を切り抜けていく斎藤投手の真骨頂を垣間見るかのような展開であります。
 引き分け再試合となった翌日の関西戦も、また、息詰まる接戦となり、早実が4対3でリードして迎えた9回裏には、再び、二死満塁で前日に同点三塁打を打たれた関西の四番バッターと対峙することになります。
 
 2006年3月31日付の毎日新聞スポーツ面の記事は、この9回裏のマウンドで、斎藤投手が「最後は気持ちだ」と自分に言い聞かせたと伝えていますが、前日の試合から数えて334球目となった斎藤投手の投球は渾身の内角速球で、見事に相手を三振に仕留め、早実の24年ぶりとなるセンバツでのベスト8を決めました。
 僕が大学時代に軟式野球の授業で教わった石井藤吉郎先生は、安部球場のベンチで行った座学の際に、早稲田野球の真髄を示す話として、石井先生の恩師でもあり早稲田野球の開祖とも言うべき飛田穂洲のエピソードを紹介してくださったものでありますが、この関西との再試合における斎藤投手の投球は、その中のあるエピソードを思い起こさせる話であります。
 「9回裏二死満塁、ボールカウント・ツースリーという場面で、ピッチャーは何を投げるべきか」と石井先生に問いかけられ、ほとんどの学生は「ど真ん中へのストレート」と答えたものでしたが、その回答は「気持ち」でありました。「球種の問題ではなく、そういう場面では、ピッチャーは自分の気持ちを投げなければいけない」というのが飛田穂洲の教えだったのでした。
 この関西戦では、斎藤投手は渾身の速球を内角に投げこんだようでありますが、あの駒大苫小牧との決勝再試合で、最後のバッターとなった田中将大選手に投じた最後のボールも、コースは外角でありましたが、やはり、渾身のストレートだったことを思い出しますし、そういう意味では、斎藤投手は、大舞台のギリギリの局面で、紛れもなく早稲田野球を体現した選手であるとも言えるのではないかと考えるわけであります。
 また、早実野球部は、この関西との引き分け再試合での勝利により、甲子園での勝利数が春夏通算50勝目という記念すべきエポックを迎えておりまして、早稲田野球にとっての様々な節目の記録でその名前を残すことになる斎藤投手の持つ「星の強さ」は、この辺りから、既に、現れ始めていたようです。
 ちなみに、早実の50勝の内訳は、春19勝・夏31勝ということでありました。
 この年の春の選抜高校野球は、この後、3連投となった斎藤投手が翌日の横浜高校戦では3回6失点でKOされ、ベスト8で姿を消すことになりましたが、この敗戦も、今から振り返れば、夏の甲子園でのドラマチックな展開の序章にしか過ぎなかったことになるわけであります。
 



 
 …ということで、今回も、肝心の2006年夏の西東京大会と甲子園まで辿りつけずに、時間切れとなってしまいました。
 次回は、いよいよ「神宮の星」への前史におけるクライマックスである2006年の夏を振り返らせていただくことを約束して、今回は、この辺りでお開きとさせていただきます。 それでは、皆様、次回をお楽しみに。
(2011年2月27日深夜にアップ)
 



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