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60年代通信スペシャル 震災復興祈願花火「フェニックス」
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長岡空襲について 「長岡まつり」の大花火大会が毎年8月2日と3日に開かれているのは、昭和20年8月1日に空襲で焦土と化し、多くの市民が犠牲となったことから、その戦災復興への願いと犠牲者への慰霊の思いを込めて翌年の昭和21年8月1日から始まった「長岡復興祭」がその原型となっているからです。 昭和22年には10年ぶりに花火大会が復活し、昭和26年から「長岡まつり」に名称を変更、花火大会も「長岡まつり」の一環として行われるようになりました。 長岡市のサイトによると、現在は、8月1日に戦災殉難者慰霊祭や灯篭流しに加えて、民謡流しや30基以上に市民の熱気がぶつかり合う神輿渡御などの前夜祭が開催されております。
長岡駅前の大手通りは、僕が子供の頃には市内随一の繁華街として大変な賑わいを見せていたものでありますが、全国の多くの地方都市がそうであるように、車社会の進展と新幹線やバイパス道路などで街の構造がすっかり変わってしまい、校外の大型ショッピングセンターに大勢の人が流れるようになってしまった今、かつての駅前繁華街の寂れ方は、目を覆うばかりですけれども、今年の夏、その大手通りを自転車で走っていたら、商店街の中の以前は本屋さんだったはずの場所に「長岡戦災資料館」という展示施設ができておりました。 この戦災資料館の中に入ってみると、やはり、昭和20年8月1日の長岡空襲に関わる展示が中心になっておりましたので、その展示資料などを参考にさせていただきながら、「長岡まつり」と大花火大会の起源に連なる長岡空襲のことについて、書かせていただきたいと思います。 まず、長岡空襲の事実関係がまとめられていた展示から、そのまま、引用させていただくことにします。 すさまじい長岡空襲 昭和20年(1945)7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。 その11日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わると同時に、突然、証明弾が投下され、B29による焼夷弾爆撃が始まりました。
猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1470人を超える市民が犠牲になりました。 アメリカ軍が長岡空襲に使用した投下弾量は925トン。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。 ・警戒警報の発令 8月1日 午後9時6分 ・空襲警報の発令 8月1日 午後10時26分 ・爆撃開始 8月1日 午後10時30分 ・爆撃終了 8月2日 午前0時10分 ・空襲警報の解除 8月2日 午前0時35分 ・警戒警報の解除 8月2日 午前2時17分 さらに、同年8月3日付の新潟日報は1面トップで、次のように伝えています。 新潟日報(昭和20年8月3日)
B29五十機長岡市を焼爆 二波・四百数十機 六都市に分散来襲 鶴見、川崎、長岡に被害 東部軍管区司令部、横須賀鎮守府司令部発表【昭和廿年八月ニ日十時三十分】 一、B29四百数十機は一日廿一時頃より前後六時間に亘りニ波に別れ管区内各地に分散来襲せり ニ、第一波の状況 約百五十機は相模湾より侵入、鶴見、川崎附近を爆弾攻撃せり、尚他の約五十機は富山地区より新潟地区に侵入、長岡附近に對し焼夷弾攻撃を加へたり 水戸、八王子、立川も攻撃 三、第二波の状況 各々約百三十機を以て房総半島、相模湾より同時侵入、水戸附近及び八王子、立川に對し主として焼夷弾攻撃を実施せり 四、右攻撃により鶴見、川崎、水戸、八王子、立川、長岡の各都市に相當の被害を生じたり 皆様もご存知の通り、太平洋戦争では、日本の多くの都市が米軍による爆撃を受けました。長岡戦災資料館の展示資料によると、昭和17(1942)年4月の本土初空襲となった東京、横浜、川崎、横須賀、名古屋、神戸への爆撃を皮切りに、昭和19(1944)年6月から敗戦を迎える昭和20(1945)年8月までの約1年3カ月の間に全国各地で200以上の都市に空襲が行われました。 再び、戦災資料館の展示資料からの引用です。
近代の戦争では、国民の戦意を奪い、同時に軍需品の生産能力を失わせる目的で、各国が戦略爆撃をするようになりました。日本に対するアメリカの空襲は、全国200以上の都市に及びました。終戦を迎えた昭和20年8月15日までに、全国の都市の大半が焼け野原となり、50万人以上の一般市民の尊い命が失われました。 長岡空襲…昭和20年8月1日 死亡者/1,473人 被害家屋/11,986戸 東京大空襲…昭和20年3月10日 死亡者/約8万8000人 被害家屋/268,358戸 横浜大空襲…昭和20年5月29日 死亡者/3,789人 被害家屋/79,350戸 名古屋大空襲…昭和20年3月19日 死亡者/826人 被害家屋/39,893戸 大阪大空襲…昭和20年3月13日 死亡者/3,987人 被害家屋/136,107戸 神戸大空襲…昭和20年6月5日 死亡者3,184人 被害家屋/55,368戸 広島・原爆投下…昭和20年8月6日 死亡者/約14万人 被害家屋/51,787戸 長崎・原爆投下…昭和20年8月9日 死亡者/73,884人 被害家屋/18,409戸 沖縄・空襲、艦砲射撃や地上戦…沖縄では空襲や艦砲射撃、機銃掃射だけでなく、激しい地上戦も、行われました。一般市民の死亡者は約10万人といわれています。 さらに、長岡空襲では、多くの学童たちも犠牲となり、戦災資料館の展示資料では、次のように説明されています。 長岡空襲と国民学校の子どもたち 昭和20年(1945)4月の長岡市には、国民学校が11校あり、11,268人が通学していました。7月に入ると学童疎開が勧められ、市外へ転校する子どももいました。しかし、8月1日の空襲で7校が焼失し、216人が亡くなりました。 また、旧市外であった宮内国民学校と上川西国民学校蓮潟校舎も焼けました。2学期が始まって登校してきた子どもは4,511人に過ぎず、長岡空襲前の半分にも及びませんでした。 そして、学校が焼けた子どもたちは、9月から二部授業で他校へ通いました。家も衣服も学習用具も焼かれた子どもたちはどんな暮らしをしたのでしょうか。雨が降ると雨具がないので学校を休む子どもが多かったそうです。しかし、そんななかでも、しっかり勉強して新しい日本の建設に役立ちたいと頑張る子どもたちがいたのです。 この長岡空襲で犠牲になった学童たちの霊を慰めると共に、平和への祈りと不戦の誓いを込め、平和像が作られました。 僕が子供の頃は、長岡駅前の噴水広場の中央に、この平和像が設置されていて、長岡市のシンボルのような位置づけだったように記憶しています。 この平和像の建立にいたる経緯について、長岡戦災資料館の展示資料では、次のように説明されていました。
平和像 長岡空襲の犠牲者1470余名の中には、280名余りの学童が含まれていました。このいたいけな学童たちの霊を慰めるため、県教職員組合は全県下から募金を募り、集まったおよそ150万円をもとに像をつくりました。慰霊と平和への限りない願いを込めて「平和像」と名づけられ、昭和26年11月に長岡駅前広場に設置されました。 その後、この平和像は悠久山公園、明治公園と移転しましたが、平成8年、市民の平和への願いのシンボルとして新しく完成した平和の森公園に安住の地を得ました。 平和像の中には、銅版に刻まれた「昭和二十年八月一日長岡市戦災学徒名簿」が納められています。 僕が子供の頃、長岡駅前の広場に平和祈念のシンボルとして設置されていた平和像は、僕が長岡を離れた1970年代半ば以降、一体、どこに行ってしまったのだろうと思っていたのですが、恐らく、上越新幹線が開通して駅周辺の開発工事が進められた際に、悠久山公園に移築され、さらに、再び、市内の公園に引っ越した後、上記の説明にもあるように、市内に造成された「平和の森公園」に落ち着くことになったようです。 個人的には、僕が子供の頃と同じように、平和を祈念する長岡市民のシンボルとして、上越新幹線が開通した後も、何とか、駅前にスペースを確保して欲しかった気がしますけれども、新しく造られた公園が安住の地として選ばれたということでありますから、長岡市民だけでなく、長岡を訪れる市外の方にも、是非、この公園に足を運んでいただき、「平和の像」に込められた慰霊の気持ちと平和と不戦の誓いに思いを馳せていただければと思うわけであります。 今年の夏、僕が訪れた「平和の森公園」に設置された平和像の台座には、次のような言葉が刻まれていました。
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